”本質”を見抜けば道は拓ける「絶対的格差」を打ち破ったレジェンド・中村仲蔵の視点とは
300年近くも前のレジェンドに、どうしてこうも心を揺さぶられるのだろう。
それは、底辺で喘ぎ、死の淵に立った人である。
振り払っても振り払っても降り注ぐ火の粉。挙句の果てに見舞われたトドメの一撃。
それでも彼はめげなかった。
心を奮い立たせ、世間をあっと言わせるアイディアで、起死回生。その勢いで、どん底から頂点にまで駆け上がってしまう。
こんなことが実際に起こるのだから、この世も捨てたもんじゃない。くさってばかりいないで、前を向こう。
そんなふうに思わせてもらえること、請け合いだ。
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目次
奈落の底
レジェンドの名前は初代中村仲蔵(1736-1790)、江戸時代の歌舞伎役者である。
19歳のとき、彼は両国橋から身を投げた。*1:p.842
一体、なにがあったというのだろう。
*年齢はすべて数え年です。
運命の出会い
仲蔵は赤ん坊の頃に両親と別れ、4歳のとき養父母に引き取られた。*1:p.836
養父母は乗り気ではなかったが、小僧(雑用係の男の子)として渋々手元に置いたという。親の愛情を知らない子どもだった。毎晩毎晩、粗相をし、「役立たず」と折檻された。
だが、この養父母との出会いが仲蔵の人生を大きく展開させる。
養母は日本舞踊の最古の流派を誇る志賀山流の家元、養父は江戸三座(幕府が興行を許可した3つの芝居小屋)に出勤する江戸長唄の名手だったのだ。*2:p.24
幼いころから養父母に厳しく芸事を仕込まれた仲蔵は、7歳で歌舞伎役者・中村藤十郎に弟子入りし、10歳で初舞台を踏む。*3:p.5
それからは、子役として順調に成長していった。
門閥の出ではないものの、超一流の師匠のもとで育ち、容姿にも恵まれている。このままいけば、ひょっとして・・・と周囲は期待していたことだろう。
たが、運命は残酷だった。
どん底からの再出発
15歳のとき、贔屓筋にひかされて役者を廃業。今の感覚ではなんともシュールな話だが、仲蔵はそういう世界に生きていたのだ。
ところがこの男性との関係はあっけなく終わってしまう。*2:p.25
17歳で長唄三味線の名手の娘を妻にした。すると、仲蔵の歌舞伎に対する情熱が再燃する。生活のために営んでいた酒屋を閉じ、ふたたび芸事に精進した。
そして、10代の若さで日本舞踊の稽古場を開き、志賀流六世家元となったのである。*2:p.26
彼が再び歌舞伎の世界に戻ったのは19歳のときだった。舞い戻った仲蔵への風当たりは強く、どん底からの再出発となった。*1:p.842
ちょうど声変わりの時期とも重なり、子役のころとは勝手が違う。師匠にこっぴどく叱られ、それをきっかけに仲間内からのイジメが始まった。
仲蔵の才能に対する嫉妬と羨望がそうさせたのだろうか。「楽屋なぶりものと成ぬ」と、仲蔵は書いている。
そのシーンをテレビドラマで観た筆者は、思わず目を覆いたくなったが、仲蔵が書き残した回顧録を読むと、決してオーバーな演出ではなかったことがわかる。
それは、ここに書くのが憚られるほど陰惨で手の込んだイジメだ。
来る日も来る日もそれが続くのだ。痛みと屈辱にまみれ、身も心もボロボロだった。
それだけではない。養父母を相次いで亡くし、その香典で食いつなぐ日々。頼る人はなく、妻も病床にあった。
這い上がろうにも、その術などないではないか。
どこに生きる希望があるというのか・・・。
容姿に恵まれ、幼いころから一流の芸の中で育ち、その才能を開花させつつあった仲蔵と、名門の出ではないがために蔑まれ、下級役者として奈落の底に突き落とされた仲蔵・・・。
思いつめ、両国橋から身を乗り出した仲蔵は、対極にある2人の自分の狭間で、理不尽さを噛みしめていたに違いない。
飛躍
命がつながったのは、子どものころに泳ぎの手ほどきを受け、水心があったからだ。それで死に切れなかった。*1:p.842
岸に上がった仲蔵は、訝る人々に心配をかけまいと、「出世を願っての水ごりだ」と言い繕い、生きていこうと前を向く。
それから20年余のときが流れ・・・。座頭になったのは1776年、40代に入ったころである。*3:p.7
「八両の給金より千両に至る」*1:p.859
仲蔵は文字通りの千両役者になった。
門閥・家系を誇る江戸歌舞伎で、名門の出とはほど遠い仲蔵が、どうやって頂点にまで昇りつめたのだろうか。
弁当幕
転機が訪れたのは、30歳のころだった。
仲蔵は役者としての本領を発揮しつつあり、役者評判記(歌舞伎役者のランク付けと批評を載せた本)の評価も高かった。*3:p.7
ところが、ある日、なんとも冴えない端役を振られてしまう。「仮名手本忠臣蔵」の小野(斧)定九郎だ。
「仮名手本忠臣蔵」といえば、歌舞伎を代表する演目の1つ。赤穂浪士による仇討ちを題材とし、全11段構成で数々の見せ場がある。*4
しかし、よりによって定九郎とは・・・。 侍の成れの果ての、山賊である。
出番はほんの数分。通りかかった老人を殺して50両を奪うが、その直後にイノシシと間違えられて撃ち殺されてしまう。
その拵え(こしらえ・扮装)も実に野暮ったい。頭巾をかぶり、太い縞柄のどてらに、わらじ・・・なのだ。*5:p.46
江戸時代は、9時間近くもかかるこうした出し物を、夜明けから日没まで1日通して楽しんでいた。その間、当然、トイレに立ったり、食事をしたりする。*6:p.18
定九郎が出てくる5段目は、典型的な「弁当幕」。*7:p.58
見どころがないので、舞台そっちのけで、安心して弁当が食べられる・・・。
当時、既に頭角をあらわしていた仲蔵に、なぜこんな端役が振られたのだろうか。
確執のあった戯作者の仕返しだったという説が有名だが、真偽のほどはわからない。*7:p.53
「このままでは潰されてしまう」仲蔵は唇を噛んだ。
静かな喝采
その日、弁当を楽しんでいた観客は、箸を持つ手を止めた。
「・・・な、なんだ、これは!」
出展:仮名手本忠臣蔵 五段目(葛飾北斎・画)国立国会図書館デジタルコレクション*8
古びた黒紋付に破れ傘、伸び放題に伸びた月代(さかやき)。白塗りの身体から裸足の足元に、雨の雫がぽたぽたと落ちている。
「これが、あの、定九郎?」
定九郎はもはや、もっさりした山賊などではなかった。
それは、当時の「牢人」の姿そのものだったという。*3:p.15
出展:定九郎を演じる初代中村仲蔵(勝川春章・画)メトロポリタン美術館 The Met Collection*9
観客は一目見て、う~んと唸ったきり、身じろぎもしない。
「50両―――!」
たった1つの台詞に魂を込め、凄みをきかせたつもりだったが、観客の唸り声にかき消されてしまう。*5:50-51
「しくじったか・・・」
仲蔵の胸に不安がよぎる。
これでしくじったら、もう江戸にはいられまい・・・。仲蔵は、覚悟を決めて開き直り、芝居に集中する。
鉄砲で撃たれるシーンでは、血紅を腹に塗り、口にも含んでブワッと吹き出し、残りをダラダラと溢れさせた。
手先で宙を掻いて、白目を剥く。
客席の子どもがわっと泣き出した。
「こんな定九郎は観たことがない・・・」
観客は呆気にとられ、う〜んと唸ったきり、ものも言わずに見入っている。仲蔵はますますしくじったと思い、全霊を込めて演じ切った。
「新しい肩すかし」
芝居好きはつくづく天邪鬼な人種だと思う。
「この演目で、この役者なら、きっとこう演じるだろう。拵えはこうで・・・」と観る前から舞台を思い描き、そのとおりになることを待ち望む。
そのくせ、自分の期待通りの芝居ではつまらない、鮮やかに裏切ってほしいとも願うのだ。「おお、そうきなさったか」と唸ってみたい、唸らせてほしい、と。
仲蔵の定九郎は、そんな観客のツボにすっぽりハマった。
「定九郎の思い入れは江戸中が受け取った」
「定九郎の趣向は新しい肩すかし」
と、評判記も絶賛した。*3:p.8
「定九郎より日ましにだんだんとご出世」
定九郎を演じたことが出世のスプリングボードになったのは間違いない。 *7:p.56
では、仲蔵は新たな定九郎像をどのようにして創り上げたのだろうか。
イノベーション
仲蔵がその着想をどこから得たのかについては諸説あり、どれが事実なのか定かではない。
ここでは、そのうち、有名な2つの説をご紹介したい。
格差を逆手にとる
1つ目は、定九郎の新しい扮装は、実は仲蔵のアイディアではなかったという説である。
白塗りでびしょ濡れの、浪人崩れの追いはぎ。その発想の主は、五代目團十郎だったというのだ。*3:pp.16-17
しかし、父親である四代目團十郎は、
「柄が悪い。團十郎はそのようなことはやらない」
と言って、その提案を退けたという。
團十郎という大名跡を継いだからには、大衆におもねて当たりをとるような表現は慎むべきだ。由緒正しい芸風を踏襲することが、團十郎を名乗る家の務め。四代目はそう考えていたという解釈だ。
一方、仲蔵は、門閥の出ではないからこそ、伝統や格式の呪縛から自由だった。
「不要でしたら、その趣向をください」
と、後日、申し出たというのである。
案の定というべきか、仲蔵の「新・定九郎」は大衆には大受けしたが、一方で、
「仲蔵から行儀が崩れた」
「仲蔵は二流である」
と、厳しい批判にも晒された。*3:p.15
だが、仲蔵はそれを見越した上で、敢えて二流の道を選んだという解釈も成り立つ。一流の価値観を踏み越えて我が道を切り拓き、新たな価値を産み出す。それが二流のやり方だ。
格差を逆手に取った仲蔵の勝機は、そこにこそあったのかもしれない。
浪人との邂逅
2つめの説は、古くから落語や講談、最近ではテレビドラマの題材にもされ、よく知られた筋書きだ。
神社に祈願に行った帰り道、ポツポツと大粒の雨が落ちてきたかと思ったら、夕立がきた。仲蔵は雨宿りしようと蕎麦屋に入り、晴れるのを待っていた。*5:p.48
すると、そこに、ずぶ濡れで駆け込んできた浪人がいる。
年の頃は34、5、羽二重の紋付は古びて羊羹色に褪せている。肩が出るほど袖まくりし、破れ傘の雫を払う。伸びた月代に手をやって雨水を払い、袂を絞って、蕎麦を食らう。
仲蔵の脳天に電流が走った。
「これだ!」
この話も真偽のほどはわからない。出来すぎだという人もいれば、実話の可能性を捨て切れないという人もいるのだ。*7:p.59
破格のイノベーター
仲蔵のサクセスストーリーは何を物語っているのだろうか。
こんなことが、いえるかもしれない。
どこから着想を得たにしろ、仲蔵の狙いは、扮装などという表面的なものではなかったはずだ。目指したのは、定九郎という1個のキャラクターを描き切ることではなかったのか。
身を持ち崩したとはいえ、もとは侍。かすかにでも残っているはずの侍の魂と、やさぐれて悪党に成り果てた男の、腐った性根。
定九郎がもつ残忍さは、その屈折した内面の発露だ。その残忍さを際立たせ、無残な死にざまを彩るには、あの扮装が必要だった、ということだろう。
仲蔵は定九郎の本質を掴んだのだ。
出展:定九郎に扮した初代中村仲蔵(勝川春章・画)東京国立博物館 所蔵*10
それは単に、1人の登場人物の上書きなどではなかった。
仲蔵は新たな定九郎像を創造することによって当時の忠臣蔵に変革をもたらし、現在の歌舞伎につながる、歴史的な価値を産み出したとされる。*3:p.22
苦境をチャンスに変えてスターダムにのし上がった仲蔵。
それを可能にしたのは、既成概念を疑い、本質に着目する視点と本質を見抜く目ではなかったろうか。
【参考資料】
*1 『月雪花寝物語』(『日本庶民生活史料集成』第15巻)三陽社 p.842, p.836, p.859
*2 如月青子「初代中村仲蔵の舞踊」(歌舞伎学会誌(2000)『歌舞伎 研究と批評 26』)p.24, p.26, p.25
*3 今尾哲也「仲蔵と定九郎」(歌舞伎学会誌(2000)『歌舞伎 研究と批評 26』)p.5, p.7, p.15, p.8, pp.16-17, p.22
*4 日本芸術文化振興会「歌舞伎への誘い>演目 代表的な演目>仮名手本忠臣蔵」
*5 中村仲蔵 著 ほか(1944)『手前味噌:三代目中村仲蔵自伝』北光書房(国立国会図書館デジタルコレクション)p.46, pp.50-51, p.48
*6 葛西聖司(2021)『教養として学んでおきたい歌舞伎』マイナビ出版(電子版) p.18
*7 中込重明「中村仲蔵出世噺の成立」(歌舞伎学会誌(2000)『歌舞伎 研究と批評 26』)p.58, p.53, p.56, p.59
*8 国立国会図書館デジタルコレクション〔仮名手〕本忠臣蔵五段目 (仮名手本忠臣蔵)
*9 メトロポリタン美術館「The Met Collection:The Actor Nakamura Nakazō in the Role of Ono Sadakurō ca. 1766」
*10 東京国立博物館「中村仲蔵」
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